ご本尊の阿弥陀如来は厨子内に秘仏として祀られております。お前立仏の阿弥陀如来立像は総高5尺6寸7分、材は檜の寄木造・漆箔仕上となっています。胎内に小像一駆と総檀越衆菩提のために人名等を連記した長さ20尺余りの誓願書が蔵され、貞享元年(1684)5月23日住僧俊栄法印示之とあり、このとき解体修理を施したと思われます。14世紀後半南北朝の作と考えられます。平成11年に修復し新たに願文を納めました。
旧本堂は寛延3年(1750)の建立で、11間×10間という巨大な伽藍でしたが、明治35年の台風で倒壊したため、その古材を使って明治42年に再建されました。本堂内陣に見られる欄間等の彫物は旧本堂のものを充て、往時をしのぶことが出来ます。
その後昭和5年に茅葺屋根を瓦葺に改め、併せて御拝、祖師堂、行道縁等を完成させ、更に昭和49年に土台、行道縁、唐破風等の修理を行い、平成25年には檀頭太田昭吉氏の御喜捨により屋根の大改修工事を経て今日に至っております。
旧仁王門は単層高欄付入母屋造で、安永2年(1773)の建造で黒田氏の寄進と伝えられており、再三の修理を重ね昭和34年に大修築をして茅葺屋根を瓦葺に改めました。平成5年に老朽化と害虫との被害によって再建が立案され、旧仁王門は銚子小舟木の東光寺に請われて移築されました。
丈夫で長い風雪に耐えるものをとの檀越の希望を受けて、桃山建築工房番匠鈴木浩二氏の設計施工により平成11年5月落慶、単層切妻式本瓦葺総欅造となりました。
仁王像は中国大佛師黄文寿氏の作で奈良興福寺仁王像をモデルにした総丈11尺3寸、樹齢千年の樟材寄木造で胎内には願文、檀越をはじめ関係する総ての氏名を書した経筒を納め、阿像に薬師如来小像を吽像に阿弥陀如来小像を安置しました。なお、仁王門の龍彫天井も黄文寿氏の作で、6尺5寸×9尺、厚さ5寸、樟材を用いています。
昭和8年故太田いと殿の御喜捨を基に檀越からの寄進も仰いで、芝山仁王尊観音教寺の山王社から勧請し建立され、平成19年故太田まつ殿の御喜捨により再建されました。
御祭神である大山咋神(おおやまくひのかみ)は、大地を支配し万物の成長発展を守護し、安産、縁結び、夫婦和合、また商売繁盛、社運隆昌の神として崇敬されています。
天台宗の総本山比叡山の鎮守神とされる日吉大社が本社です。
承応3年(1654)7月に最初の梵鐘が鋳造され、次いで明和8年(1772)冬、再鋳されました。鐘楼堂もその時代のものと推定され、大正15年倒壊寸前のものを補修し、更に昭和34年に仁王門と共に大改修を施し、昭和49年茅葺を銅板葺に改めました。
梵鐘は昭和17年応召供出し、現在は総丈5尺、口径2尺7寸、181貫、故中村素堂の紋様、選文併び書になるもので京都岩澤徹誠氏によって昭和49年に鋳造されたものです。
昭和53年7月には、「ふたつなき鐘やゆかしとうちごもる 縷々のひびきもまたきかましを 東榮寺の大鐘によせて素堂」と刻した歌碑が建立されています。
梵鐘は朝6時と夜9時に撞かれていますが普段はどなたでもお撞きになれます。特に除夜は多数の善男善女が参詣しにぎわいを見せています。
ご参詣者が手口を洗い浄めるための施設です。平成7年、故大関隆氏のご協力を仰いで建立されました。
仁王門瓦頭の文字「安世」をとって名付けた休憩所です。仁王門建立に当たり、周辺墓地を移転或いは削減し、快くご協力下さった檀越のおかげで思いがけない便利な施設が出来ました。平成11年5月建立。
墓地参道にはすべてコンクリートを打ってあり、点香所と水道も複数設置しております。通年清掃と各家墓地内の草取りを行っています。
現在空きはあまりありませんが、安価な小型先祖墓の提供をはじめました。
≫小型先祖墓の詳細はこちら
跡継ぎを必要としない、宗教も問わない永代供養墓です。聖観音菩薩像をお祀りした納骨堂を備えます。平成13年建立。
≫普門之塔の詳細はこちら
昭和58年6月故大関ちか殿の発願によって大川胤真大佛師の原図を線彫したもので本堂前西側にまつられています。
水子地蔵流行の時代に、子育地蔵にしようと申されたのは大川胤真大佛師で、ほぼ等身大の線彫子育地蔵尊座像となっております。
赤子を抱かれた観音様です。母が子に対するがごとく、どこまでも深く大きい慈愛の心を表した菩薩像です。平成27年建立。
仁王門をくぐると左手に安置してあります。六道(一切の衆生が善悪の業によって、おもむき住む六つの迷界、即ち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)能化(六道の衆生を教化救済する)の地蔵尊といわれます。台座共5尺3寸~5尺5寸で、享保17年(1732)から元文3年(1738)の造立であることが、銘文から知られます。
一般には頭上に馬頭をいただいて忿怒の相をなしていますが、当山の馬頭観音は、馬上に乗る忿怒の観音像に造られています。脇に、「大正七年四月八日 丸福馬車一同 慈雲山東榮寺第十六世貞弘代」とあります。馬の保護神として特に江戸時代に信仰されたようです。
当市繁華街の中心にあり、嘉祥3年(850)2月に開基されたものと伝えられています。当時はまだ未開の地でやぶ地沼沢が多かった時代でたまたま当地に慈覚大師が掛錫された折感ずるところあって大師自らノミをとって薬師如来像を彫刻され、同年6月に一宇の堂を建立し開眼勧請されたといわれております。最近では明治12年、同22年、昭和29年、同49年に補修されましたが、老朽化がすすみ、加えて周囲から逼られて境内も狭小となり、当山檀頭太田昭吉氏の発願によって平成10年8月8日に石像を奉安しました。